先日、いつもライブに来て下さる方の紹介で
神戸にあるギター・ショップ「ヒロ・コーポレーション」に初めて伺いました。
僕らの演奏に、真剣に耳を傾けて下さるオーナーのヒロさんの言葉には重みがあり、
「今日この人に会う事が自分のタイミングだったんだ」と思うと、気が引き締まりました。
ヒロ・コーポレーションBlog「ギター・マンの独り言」
http://www.hirocorporation.com/
(4/27付けの記事に、僕らの事を載せて下さっています)
ギタリストの場合、何がプロで、何がアマチュアなのか。
スポーツの世界には「プロ」と「アマチュア」を分ける制度があるそうですが、
ギターの世界には資格とか制度とか、そういうものはありません。
でも音楽の世界も「プロ意識」とか、「プロ志向」とか言ったりしますから、
なんとなく「プロ・ギタリスト」っていう言葉を使ったり、存在するような気がするけど、
ギタリストに「プロ」とか「アマチュア」とか、元々そんな区別はなかったんじゃないかな。
それこそ、ヒロさんがブログで仰るように、
「―世間に対して宣言をしているのではなく、自己に対してであるからだ―」
僕もそう思います。
その人個人が、ギターに、音楽に、音に、身体に、どう向きあっているか。
みんなの興味があるのはそこです。その人の瞬間、瞬間の思考の話なんです。
ギター・ミュージックはみんなのものです。みんなが楽しめるものです。
プロもアマチュアもありません。
その中に、とびきりギターのことが好きな人がいて、音楽を聴くのも好きで。
ギターのカタログを眺めるだけでは飽き足らずに、自分も上手に弾ける様になりたいと思い始めて。
音楽の秘密を探りたいと思うようになる。宇宙のように広大で、掴みようのない世界を、
耳で聞いて、目で見て、理解し、思い描いて、自分で奏でたいと思うようになる。
これは僕のことです。そんな場合があるだけです。
そして僕の場合、やっとここまでです。
やばいです。この先めっちゃ長いです。
僕の場合、いわゆる「独学」で、
クラシック・ギターを先生について習っているわけではありません。
でも「独学」であるからには、「学ぶ」姿勢でいなければいけない、と改めて思います。
少し前までの自分は「独学」ではなく「独弾き」だったなー、と痛感します。
それこそ時にクラシックから、フラメンコから、カントリーから。
ソロから、バンドから、歌から。ギターや音楽以外のところから学ぶ事も。
もしかしたらこの先、誰かに師事してもらうこともあるかもしれません。
でも「プロ」と「アマチュア」を区切ってしまうように、
「自分」と「他者」を完全に区切ってしまったところで、「学ぶ」姿勢は途絶えてしまうように感じます。
「学ぶ」とは「まねぶ」ことだから、「学ぶ」極意は、一体感です。
自分と、あの人は同じになれる、限りなく近づける。そう感じる事です。
自分と外側の世界の境界をなくして、外からのエッセンスを求め、許す事。
あの人も自分。この人も自分。心からそう思えば、きっと恥も嫉妬も消えます。
許す。そのことだけ止めなければ、境目のない「自分」はどこまでも広がっていける。
心の境目がなくなった場所に、美しいと感じられる音が待っていると思う。
その音はどんな音なのか、今回の人生はそれだけ追求して、研究して、そして奏でてみたい。
人から見れば「厳しい」世界だけれど、要は「境目」の話です。
あー、話が長くなったナー(笑)。
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その音楽を聴くこと、その本を読むこと、その人と話すこと。その時があると思います。
そして、このお話を読んだ、、、私にとってのその時ですね。ありがとう。
美しく真摯な音色に触れられる、その瞬間の中に音楽の秘密があるのかもしれないですね。